「美人が婚活してみたら」無意識のレッテル
「美人が婚活してみたら」という映画を観てきた。会場ほとんどが女性だったんじゃないか。アラサーくらいの。ドンピシャだね!
主な登場人物は四人。ちょっと書いてみるね。
タカコ……主人公。美人なのに男運なし。付き合った人が既婚者だったという最悪の恋愛を終えたばかり。
ケイコ……タカコの親友。主婦。夫は用意しておいた晩御飯も食べずに酒を飲んで一人で寝てしまうようなだらしないサラリーマン。義母と同居中。
園木……婚活サイトを通じてタカコと出会う。女性慣れしていないが為に、タカコへ不器用ながらも一生懸命に接する。絶望的なファッションセンス。
矢田部……歯科医。婚活バーでタカコと出会う。女性の扱いも手馴れていて、遊び相手欲しさに婚活バーへ。
タカコがそれぞれの男性と関係を深めつつ、ケイコにその進捗を報告するのが物語の大筋。
たぶん観た人はみんなタカコとケイコそれぞれに感情移入しながら、(それでどっちと付き合うの……!)とドギマギする流れなんだけど、後半へ進むに連れてじわじわと(そんな単純な映画じゃないぞこれ……!)という感情に支配されていた。
どうしても無意識に貼ってしまうのがレッテルというもの。
金髪のやつはチャラチャラしてる。黒縁眼鏡をかけてるやつは勉強が出来る。細身のパンツに革靴を履いてるガタイの良いやつは昔やんちゃしてたけど今はバリバリに会社を回してる。テクノ業界にはクスリが蔓延している。
自分の経験、周囲の行動、社会の常識とされてる考え、様々な理由で構築されてしまうものだけど、この映画でもレッテルが大きなポイントになっていた。
美人だから苦労しない。美人はすぐに結婚できる。主婦はいつも楽。主婦は暇。
冒頭に書いたタカコの紹介文、気付いた?"美人なのに男運なし"はまさにレッテルの塊のような文章。
タカコもケイコも、その持ち合わせていたレッテルを終盤にぶつけることになる。
美人だからこそサクラに疑われ出会い頭でフラれる。
「美人だからいいよね」と言われ、美人ということをいちいち謙遜して否定しないといけない面倒くささ。
帰宅したタイミングで「おかえりなさい」と義母からLINEが届くケイコ、「早くあんたも子供産みなさいよ」と言われるケイコ、
二人も無意識のうちにお互いにレッテルを貼っていて、それが後半にぶつかり合うことになる。
「美人だからいいよね!!」「主婦だからいいよね!!」
居酒屋で口論になってしまうシーン、本当に胸が痛かった。こちらもやっぱりそんなレッテルを貼ってしまっていたのだ。
そのまま別れた二人が別の場所でそれぞれぐしゃぐしゃに泣くシーンに、会場のすすり泣きがそこかしこから聞こえた。
タカコが歌を口ずさみながらスキップをするラストシーン。
「手のうた」という主題歌にそのまま繋がって暗転してエンドロール、という素敵な流れの直前、確信的なカメラ目線に心奪われた。
そのカメラ目線は、原作を知っていて、もしくはあからさまなタイトルに惹かれて、この映画を観たであろう、タカコやケイコと同世代の悩める人へのエールだった。
きみのその手は なんのための手
きみのその手は ものをつかむための手
しあわせをつかむ手 みらいをつかむ手
きみのその手は みんなとつなぐための手
「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」(魔女の宅急便)や「タヌキだってがんばってるんだよォ」(平成たぬき合戦ぽんぽこ)は、糸井重里が書いたキャッチフレーズであるが、美人だって主婦だって、なんならそんなレッテル貼りにも該当しなさそうな人だって、恋愛や生活に落ち込んで死にものぐるいで立ち直っている。
そもそも結婚って幸せか?タカコは結婚を「忍耐」だと言う。
そもそも美人って幸せか?ケイコは美人でも「死にたい」と言う。
夜の住宅街の光一つ一つに人生があるように、幸せそうだなと思わされる人にも必ず辛く思う部分があって。
他人に対して無用なレッテルを貼らなければ、きっと自分自身も解き放たれて生きることが出来る。それはきっとそのまま自分らしく生きることに繋がって、幸せに向かって生きることにも繋がるんじゃないか。
幸せって、答えはないもんね。