愛おしいパン屋
この前聴いてたラジオで、
「すこし”嫌だな”って思うことがあっても、その”嫌だな”と思っているときも含めて幸せだったりする」
って話があった(超意訳)。
そのパーソナリティーが例に出していたのは、煙草がうまいときとまずいときについてだった。
「あぁーまじぃなぁー」と思いながらも、そのタイミングで吸った煙草がまずかったということも含めて良い光景だったりするわけだ。
どこにピントを合わせてシャッターを切るか、ということか。
近所にパン屋ができた。
正確には道路工事の関係で立ち退きにあった個人経営のパン屋さんが、場所を少しだけ移転させて、内装もピカピカにさせて、また開店したのだ。めでたい。
近所にはほとんどパン屋がない。
周囲の人たちも待ってたのであろう、狭い店内ながらちょっとだけ行列が出来たりもする。これは以前では見られなかった光景だった。
なにせ自分の家からも徒歩三分程度なので、小腹が空いたときなんかはちょくちょく利用させてもらっているのだけど、この前ふと気付いたことがあった。
そのパン屋、特別に美味しいわけではないのだ。
個人経営のパン屋絶対美味しい説、僕は無意識にそれを築き上げていた。そしてそれがいつの間にか崩されていたのに気付いていなかった。
個人経営のパン屋ならば絶対美味しいなんてわけないじゃないか。
それに気付いた瞬間にたまらなく生活を感じた。
特別美味しいわけでもないパンを夕方に食べる。生活だ。
雑誌の取材も来ないだろうし、行列なんかじきに無くなってきっとのどかな時間が流れる。生活だ。
生活を感じるということは、その町のリズムを把握することなんじゃないか、もしかして。
美味しくなってほしいとは思わないくらいに、愛おしいパン屋が近所にできた。