トイ・ストーリー4、めっちゃよかったんだが(超ネタバレ有)
(フィルマークスに書いたレビューを最後に共有しておきます)
タイトルの通り!
すこぶる良かった!!
なんだか賛否両論なのは知ってたので、めっちゃ良かった……!と自分でレビューを書いた後に他のレビューを見てみた。そんな悪かったかな?と思って。
"人間がかわいそう" ?
「トイ」・ストーリーなんだが??
"3が最高だったから残念" ?
今作はその後のウッディの幸せなんだよ??
"子ども向けに寄りすぎた"?
え、そもそもなにを観てきたの……??
おもちゃやぬいぐるみに感情があるとするならば、人間は成長するからこそ、おもちゃにとってどうしても残酷な存在にもなってしまう。
じゃあ "その後の" おもちゃの(それぞれ違った)幸せのかたちを描くことこそ、トイ・ストーリーの続編でやるべきことだったんじゃないかな。
だってみんなに幸せになってほしくない??
クライマックスのシーンでそのままボニーの家に戻った仲間たちも、ウッディたちの生き方を知ったというだけでその後のおもちゃ人生に大きな影響を与えるんだと思う。
もちろんウッディやボーのような生き方がベストではなく、幸せへの選択肢を増やしたということが素晴らしいこと。
ひいてはそれが観客である人間にも選択肢を提示していることに繋がる。
もしアンディがウッディを手放さないストーリーがあったとしても、一緒に遊んでくれない時期は来る。きっとアンディのことだからその場合は大切に飾ったりするのだろう。
でもウッディはどうか?家で側にいれさえすれば良い?ほんと?
アンディが社会人になって初めての出社、初めての会議、コレクションケースから抜け出してついていく絵が思い浮かばないか?
その度に他のおもちゃから止められるに違いない。「外は危険だし、アンディはもう立派な大人だよ?」
他のおもちゃがいなくても、アンディの為を思って一人で影ながら動き続けるウッディの姿は、なんだかすごく寂しくないか。
どこかのタイミングでアンディにはもう(子供のときほど)必要とされていないことが分かるだろう。
「でもアンディには俺がいなくちゃ……」とifストーリーの先のウッディも、やはり固定概念に縛られてしまったからこそ悩んでしまいそう。
固定概念は時として呪いにもなり得る。
ウッディは子どもの側にいることこそがおもちゃの幸せだと信じてやまない。
今作ではその呪いのような固定概念から救い出す必要があった。だって幸せのかたちはひとつじゃないし、それはおもちゃも人間もそうだから。
以下、レビューです。
〜〜〜〜
思えばトイ・ストーリーと一緒に歳を重ねてきたもんだ。最新作を観ては友達におすすめしたりして。
そうこうしている内にトイ・ストーリーの中でも時間は進んでいたのだった。
頼れる男性像なんてもう古いし、女性がぐいぐい引っ張っていく図もすっかり定番。
もはや性別感すらも野暮であり、誰だってプリキュアになれる時代だ。
そんな中で空回りしたりうじうじするウッディはシリーズ史上一番人間臭く見えてしまう。
こんな昔からの価値観が抜けない上司、いるよね?
この映画はそんな古い価値観を塗り替えていくウッディを通して、こちら側へも問い掛け、新たなスタートへの背中を押してくれるものだった。
ラストの新たな"おもちゃ"のセリフは、「なんで生きてるの?」だった。
知らず知らずの内に、縛られてはいないか?
価値観の違いの話と同様に、幸せのかたちの違いというものもある。
ボー・ピープは"新しい世界"を知って新しい幸せのかたちを見つけた。
おもちゃにとっての幸せとは何か?
子どもに遊んでもらうこと?
遊んでほしいおもちゃを子どもへ分け与えること?
それともまだ見ぬ素敵な景色を見ること?
この映画ではそのどれもが正解であり、大事なのは幸せのかたちを持っているということ。
幸せのかたちを見失ったギャビー・ギャビーも、他のおもちゃ達をきっかけに新たな幸せを掴むことが出来た。
迷子を助けるつもりで迷子のギャビーが救われて、それによってあの迷子は意を決して警備員に声をかけることが出来たシーンは感動的な救済の二重構造だった。
それではウッディにとっての幸せとはなんだったのか?
アンディとは違って、ボニーは全く遊んでくれない。
子どもに遊んでもらうことや子どもの側にいることが幸せだと信じ切っているからこそ、ボニーの選択は残酷なものだった。
それでも保安官として他のおもちゃのリーダーであり続けようとする姿は、役割を終えた古時計が誰も見ていなくても時を刻んでいるような虚しさと切なさがあった。
ボーの持つ新しい価値観によって、新たな世界を観に行くことにしたウッディ。
トイ・ストーリー3で最高の幸せのかたちを掴んだけれど、人間は成長していくもの。ではそのときウッディの幸せはどうなる?今作ではそれを描いてくれたのだと思う。
愛するボーと共に新しい幸せのかたちをも掴んだ彼はまさに"セカンドチャンス"を信じたということ。
保安官バッジをジェシーに託し、今までの自分の役割を終えた彼の新しい冒険が始まる。
では人間であるあなたの幸せは?自分の幸せは?
「なんで生きてるの?」
この映画においてのおもちゃとゴミの違いは自分にとって必要なものがあるか、もしくは必要とされているかどうかだと思う。
フォーキーは名前を書かれた(ボニーに必要とされた)からこそ自我が芽生え、やがてボニーを必要としていく。
ラストシーンではすっかり先輩面なのが微笑ましい。
人間である僕たちは、必要なものがあるか、もしくは必要とされているか。
それは、やりたいことがあるか?や大切な人はいるか?などに当てはまると思う。
古い価値観に縛られてないか。
自分の思う幸せのかたちに正直に生きているか。
きっとこの映画はそんなことを問いかけ、誰かの"セカンドチャンス"を後押しするものとなるのでは。
違った人生も、幸せかも!!
〜〜〜〜
だれにもきらわれたくない!!
やほねー。
インコは見つかってないみたい。詳細は前回のブログで。
表題のとおりの思想をずーーーっと抱きながら30年生きてきたわけだけど、折に触れてこういう話になるとあんまり理解してもらえず、嫌われてもいいって思えるのすごいなあと思いながらこれを書いているよ。
「嫌われたっていいじゃん」
そういう話でよく言われるやつ。そこに付随する言葉がいくつかある。
「嫌われたっていいじゃん。もう会わないんだし」
でもどっかで会うかも知れない!しかもそれってめっちゃ面白くない??
「嫌われたっていいじゃん。気にしてる時間がもったいない」
これは確かに……。でも結局嫌われて悲しむことが悲しいので、やっぱりあらかじめ嫌われないべきだと思うのよ。
いや、そもそもみんな悲しまないのか?すごすぎる。強くない?それ誇っていいよ?
就職して接客業をやったからか、中高の吹奏楽部で女子の顔色を伺ってサバイブしてきたからか、小学校入学に合わせて山梨から埼玉に引っ越してクラスメイト誰も知らない境遇に置かれて嫌われたら生きていけない!って思ったからか、嫌われたくない!を拗らせ過ぎて、相槌をつくことばかり上手くなったしまった。自分から話さなければ失敗する可能性は限りなく少ないからね。
だからあまり喋らない人に対して、楽しませる術がなくなってしまったし、自分から他者に対して何かアクションをすることが億劫になってしまった。
どこか遊びに行くのにグイグイ誘える人すごい。僕らみたいな人種にはそんな君の存在が人生の鍵だ。
こっちはごくごく稀にこちらから持ちかけた遊びや食事に乗っていただいても(ひょっとしてこの人にとっては楽しくないんじゃないか……別の選択肢があったのでは……この人の時間を無駄にしてしまってる……家でYouTube見ててもらってた方が有意義なんじゃないか……)と思うことが多々あるのよ。
「優しいんですね」って言われたら「そうなんですよ!!」と言うようになった。この臆病を優しさというオブラートでせめて包んでもらわないと、なんにもなくなっちゃうから。
…………。
いや、生きづらいねえ〜〜〜!!!
オチのあっけない漫才、一周回って新しいよなと思ってしまうようになった。
トム・ブラウンの「出来たんでかえりまーす」とかパンクブーブーの「もうっ!バカっ!」とか。
(なんでこの二組を思い出したんだろう)
「インコ 逃げた」で検索した日
最寄駅のそばに、インコを探してる旨の貼り紙があった。昨日から。
平日のど真ん中、もしかしたら仕事終わりに慌ててWordとかで作って夜中に貼って回ったのかもしれない。駅から徒歩8分くらいの我が家のそばの電柱にまで貼られていた。わざわざこんな住宅街まで。
貼り紙の文面には、
「不注意で逃がしてしまいました」
「雨も降っているので心配です」
窓を開けてしまった瞬間をことあるごとに悔やんでしまう姿がありありと想像できる……。
今日も雨だったし……辛いよね……。
いたたまれなくなって「インコ 逃げた」で検索してみると、そもそも飛び立った方向とは真逆で見つかることもあるらしいし、10km先で保護されていたケースもあったそう。
そんなに絶望的なのか……。
さらにいたたまれなくなって何か情報はないかとツイッターで調べてみたら、ちゃんと専用アカウントを作っていた。
探しているツイートはもちろん、ほかのインコの捜索情報も細かくリツイートしていた。
どうやら最寄駅に貼られていたのは昨日からだったけど、いなくなってしまったのは先週かららしい。
(ツイート引用)
↓↓↓
「逃した本人の同居人は、今日は仕事が早く終わるからって麻雀に行った」
「◯◯(インコの名前)、生きてるかも分からないし、死ぬ寸前で怯えてるかも知れないのに。命をなんだと思ってるんだ」
「ポスターの電話番号アンタのにしたのに出ないとかありえない」
「付き合わなければ◯◯と一緒にいれたのに」
「あのクズ野郎」
「くそサイコパス付き合わなければよかった」
「(同情のリプライに)◯◯が見つかったら別れようと思います」
えっ……つら……逃がした本人危機感無かった……。
「くそサイコパス」という語呂の良さがちょっとだけ面白い……とか思ってる場合じゃない……。
貼り紙一枚からじゃ見えないものを垣間見てしまった。可視化されたSNSの凄さと怖さ……。
どうかインコちゃんが見つかりますように。
あともうちょっとまともな新しい彼氏も見つかりますように……。
ハッピーエンドになりたい
最近、「満腹ってむしろ不幸じゃない?」という話をよくしている。
「お腹いっぱい!!」の後の身体も気持ちも重たい感覚、めっちゃ悲しくないですか???
ちょろっと何品かつまみを食べて二杯くらい飲んだ帰りに、「いや、足りないぞこれ」とカップ焼きそばなんかを買い足して改めて食べてる途中で、「いや、キツいぞこれ……」と後悔することをこの前初めて経験してから、満腹になるたびにそう感じてしまっている。
なにが「いや、」だ。
さっきまでの自分の感情を否定してまで新たに歩んで道のりで失敗しているという愚かさも相まって、なんとまあ惨めなことか……。それが成功するのはきっと「プロフェッショナル 仕事の流儀」だとか「情熱大陸」だとか「ガイアの夜明け」に出演する一部の方々だけに違いない。
違いは計画性だ。もしかしたら満腹となるタイミングで冷凍保存したり明日の朝ごはんに回せるものを買っておくような計画性さえあれば、心の「情熱大陸」に出演してもいいだろう。
満腹になったタイミングで、【まだ食べるか?明日にまわすか?】を悩むシーンにヴァイオリンのあの旋律が流れ(「プロフェッショナル」であれば【】部分が真っ黒背景にポーン……と白字で出てくるだろう)、紆余曲折経てついに冷凍保存したものを翌日解凍して美味しく食べているときに「Etupirka」が流れてそのままスタッフロールからのエンディングだ。美しすぎるハッピーエンド。
もとより少食なのだ。
ほとんどのものは普通・並盛で十分だし、サイドメニューも必要ない。家系ラーメン屋さんでよくあるライス無料なんかは見え見えの地雷だし、むしろチャーシューや味玉を足すことすら冒頭の小さな伏線を回収するかの如く食べ終わる間際に巧妙な罠となり得る。
浴槽で目覚めたときに鍵が水と共に吸い込まれるSAWのワンカット目の演出、すごかったよな。
「明日はこれをしよう」が眠気にかまけてなかなか出来ないように、空腹に対してはしっかり毎日抗いようもなく馬鹿になってしまっている。
そもそも空腹時におけるあの無敵感はなんなんだ。
マリオシリーズにおけるスター、カービィの無敵キャンディ、無双乱舞……。
いずれにしても無敵時間は突然パッと切れるものだ。最悪なのは敵に囲まれてる途中に切れることであり、メインを最後に食べようと楽しみにとっといた段階で訪れる残酷なタイミングもあったりする。
「あと一口じゃん!勿体ない!」と自分も言ってしまいがちだけど、気をつけよう……。無敵時間が切れてしまって、なんならHPもMPもきっと底をついているのだ。むしろそこまでの健闘をいたわるべきなのだ。よく食べた。えらい。おしゃれなカフェのタコライスが少量なように、ふらっと入った定食屋の普通盛りで思ってもいなかった大盛と出会ってしまうこともある。余力があるやつが箸を伸ばせばよい。それならみんなハッピーだ。
人間とは過ちを繰り返す生き物なのだ……と思いながら、重たさに加えてゴロゴロしだしたお腹をさすって飲食店を去ることをどうにかしたい。
"ちょうどいいところでやめられる人がハッピーエンドよ"
(大森靖子 / ノスタルジックJ-POP)
愛おしいパン屋
この前聴いてたラジオで、
「すこし”嫌だな”って思うことがあっても、その”嫌だな”と思っているときも含めて幸せだったりする」
って話があった(超意訳)。
そのパーソナリティーが例に出していたのは、煙草がうまいときとまずいときについてだった。
「あぁーまじぃなぁー」と思いながらも、そのタイミングで吸った煙草がまずかったということも含めて良い光景だったりするわけだ。
どこにピントを合わせてシャッターを切るか、ということか。
近所にパン屋ができた。
正確には道路工事の関係で立ち退きにあった個人経営のパン屋さんが、場所を少しだけ移転させて、内装もピカピカにさせて、また開店したのだ。めでたい。
近所にはほとんどパン屋がない。
周囲の人たちも待ってたのであろう、狭い店内ながらちょっとだけ行列が出来たりもする。これは以前では見られなかった光景だった。
なにせ自分の家からも徒歩三分程度なので、小腹が空いたときなんかはちょくちょく利用させてもらっているのだけど、この前ふと気付いたことがあった。
そのパン屋、特別に美味しいわけではないのだ。
個人経営のパン屋絶対美味しい説、僕は無意識にそれを築き上げていた。そしてそれがいつの間にか崩されていたのに気付いていなかった。
個人経営のパン屋ならば絶対美味しいなんてわけないじゃないか。
それに気付いた瞬間にたまらなく生活を感じた。
特別美味しいわけでもないパンを夕方に食べる。生活だ。
雑誌の取材も来ないだろうし、行列なんかじきに無くなってきっとのどかな時間が流れる。生活だ。
生活を感じるということは、その町のリズムを把握することなんじゃないか、もしかして。
美味しくなってほしいとは思わないくらいに、愛おしいパン屋が近所にできた。
「愛がなんだ」分からなくていい、ということ
「愛がなんだ」を観てきた。
平日から満員、本当にすごい!!
余韻を一人で処理するのが無理だったので、いろいろ書く。
(ネタバレはありません!ほとんどだけど)
心ってどこにあるの?
その問いに胸や頭を指す人もいるだろう。
辞書を引いてみた。
1. 体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。
2. 事物の内にこもっていて、それの価値のもとになるようなもの。
うーん……分かったような分からないような。
自分の気持ちは自分にしか分からないように、心の場所もかたちも人によって違うんだろう。
というよりむしろ自分でも気持ちが分からないことも多々ある。
愛ってなんだ。
好きってなんだ。
今泉監督の作品に通奏低音のように宿っていたこのテーマが、この作品では痛いくらいに響いてくる。
(完全に余談だけど、人生で一番多く劇場で見た作品が今泉監督の「サッドティー」だった。6回くらいまでは数えてたけどあとは覚えてない。きっとどうかしてたんだと思う)
主人公のテルコが吐き捨てるように言った「愛がなんだよ」という台詞、そのシーンの中では怒りや憤りでありながら、観終わった今思い返すと希望のようにリフレインしてくる。
愛も好きも説明するようなものじゃない。
野暮、ともまた違う。分からない感情、説明できない感情も含めてるから。
だからそれは自分だけのもので良いはずだ。
"現代でも世界の人々の大半は「心」と言う場合、人間を人間らしく振舞わせる事を可能にしている何か、を想定している"
(wikipedia「心」より)
これまで経験した感情全ての蓄積が心となり、形成されていく心があなたや僕たちを人間くさくする。
「愛がなんだ」を観終わった後、もやもやした言葉にしきれないものを携えて、また心のかたちが少し変わったような気がした。
"愛ってなんだ ためらわないことさ"
宇宙刑事ギャバンのオープニングではこんなこと言ってた。喫茶店で調べてひとりニヤついてしまった。
そう言えばこの映画のキャッチコピーのひとつには『"好き"と言えないすべての人へ』とある。
みんな、ためらってたよ。ヒーローじゃないもん。
でもラストシーンのテルコを見て、彼女なりの道を見つけたんだと確信した。彼女なりの愛(のようなもの)を見つけたんじゃないか。
いいんだよ。愛が分からなくても。好きが分からなくても。幸せが分からなくても。
分かる必要すらないし、誰かに言われる筋合いもない。
劇中のスミレさんをはじめ、こういう恋愛なんて考えられない!という人もきっといるだろう。
「若いときはそれが全てのように……」
銭湯のおばちゃんも言ってた。
どいつもこいつもうるせえ。それが全てなんだ。それだけで十分じゃないか。
だからどうかほっといてほしい。
幸せのかたちを決めないでほしい。
形成される心のかたちが違うように、好きという感情はあなただけのものであり、彼女たちのものだけでもあるから。
「美人が婚活してみたら」無意識のレッテル
「美人が婚活してみたら」という映画を観てきた。会場ほとんどが女性だったんじゃないか。アラサーくらいの。ドンピシャだね!
主な登場人物は四人。ちょっと書いてみるね。
タカコ……主人公。美人なのに男運なし。付き合った人が既婚者だったという最悪の恋愛を終えたばかり。
ケイコ……タカコの親友。主婦。夫は用意しておいた晩御飯も食べずに酒を飲んで一人で寝てしまうようなだらしないサラリーマン。義母と同居中。
園木……婚活サイトを通じてタカコと出会う。女性慣れしていないが為に、タカコへ不器用ながらも一生懸命に接する。絶望的なファッションセンス。
矢田部……歯科医。婚活バーでタカコと出会う。女性の扱いも手馴れていて、遊び相手欲しさに婚活バーへ。
タカコがそれぞれの男性と関係を深めつつ、ケイコにその進捗を報告するのが物語の大筋。
たぶん観た人はみんなタカコとケイコそれぞれに感情移入しながら、(それでどっちと付き合うの……!)とドギマギする流れなんだけど、後半へ進むに連れてじわじわと(そんな単純な映画じゃないぞこれ……!)という感情に支配されていた。
どうしても無意識に貼ってしまうのがレッテルというもの。
金髪のやつはチャラチャラしてる。黒縁眼鏡をかけてるやつは勉強が出来る。細身のパンツに革靴を履いてるガタイの良いやつは昔やんちゃしてたけど今はバリバリに会社を回してる。テクノ業界にはクスリが蔓延している。
自分の経験、周囲の行動、社会の常識とされてる考え、様々な理由で構築されてしまうものだけど、この映画でもレッテルが大きなポイントになっていた。
美人だから苦労しない。美人はすぐに結婚できる。主婦はいつも楽。主婦は暇。
冒頭に書いたタカコの紹介文、気付いた?"美人なのに男運なし"はまさにレッテルの塊のような文章。
タカコもケイコも、その持ち合わせていたレッテルを終盤にぶつけることになる。
美人だからこそサクラに疑われ出会い頭でフラれる。
「美人だからいいよね」と言われ、美人ということをいちいち謙遜して否定しないといけない面倒くささ。
帰宅したタイミングで「おかえりなさい」と義母からLINEが届くケイコ、「早くあんたも子供産みなさいよ」と言われるケイコ、
二人も無意識のうちにお互いにレッテルを貼っていて、それが後半にぶつかり合うことになる。
「美人だからいいよね!!」「主婦だからいいよね!!」
居酒屋で口論になってしまうシーン、本当に胸が痛かった。こちらもやっぱりそんなレッテルを貼ってしまっていたのだ。
そのまま別れた二人が別の場所でそれぞれぐしゃぐしゃに泣くシーンに、会場のすすり泣きがそこかしこから聞こえた。
タカコが歌を口ずさみながらスキップをするラストシーン。
「手のうた」という主題歌にそのまま繋がって暗転してエンドロール、という素敵な流れの直前、確信的なカメラ目線に心奪われた。
そのカメラ目線は、原作を知っていて、もしくはあからさまなタイトルに惹かれて、この映画を観たであろう、タカコやケイコと同世代の悩める人へのエールだった。
きみのその手は なんのための手
きみのその手は ものをつかむための手
しあわせをつかむ手 みらいをつかむ手
きみのその手は みんなとつなぐための手
「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」(魔女の宅急便)や「タヌキだってがんばってるんだよォ」(平成たぬき合戦ぽんぽこ)は、糸井重里が書いたキャッチフレーズであるが、美人だって主婦だって、なんならそんなレッテル貼りにも該当しなさそうな人だって、恋愛や生活に落ち込んで死にものぐるいで立ち直っている。
そもそも結婚って幸せか?タカコは結婚を「忍耐」だと言う。
そもそも美人って幸せか?ケイコは美人でも「死にたい」と言う。
夜の住宅街の光一つ一つに人生があるように、幸せそうだなと思わされる人にも必ず辛く思う部分があって。
他人に対して無用なレッテルを貼らなければ、きっと自分自身も解き放たれて生きることが出来る。それはきっとそのまま自分らしく生きることに繋がって、幸せに向かって生きることにも繋がるんじゃないか。
幸せって、答えはないもんね。